『どうしたんですか』という質問に、答えない。
やはりこちらの話を無視しているのだろうか。
しかし、無視というよりも上の空。
単に話がよく耳に入っていないようでもあった。
彼女はドリルの側の椅子に腰掛けて、指を組んでうつむいている。
「顔色が優れませんね。だいぶ疲れてあるようだ」
もし彼が人間ならば、田宮麗子の表情を見て、
その心の内を読むことが出来たかも知れない。
しかし彼はドリルである。
ただ削り貫くことしか出来ない不器用な工具である。
無造作に沈黙が降りる。
遠くからのクラクションがやけに大きく聞こえた。
「私は、人間の顔が醜いと思っていたんです」
「どうしてですか?」
「ほら、歯を治療する時って、口をグィーッて開けるでしょう?
どんなハンサムでも美人でも、途端にブサイクになっちゃうんですよ」
2人は、少し笑った。
「だからどこかに、どんなに顔を崩しても変わらない人、
いつでもどんな時でもカッコイイ人が現れないかなって、
そんな子供みたいなこと考えてたりしたわ」
「いませんよ、そんな人は」
「そうね、いなかったわ、人間では」
まるで大気が入れ替わるかのような瞬間がある。
たとえば卒業式の最後の時間に、皆が一斉に泣き出すような。
「あなたはいつでも変わらなかった。
どんなに態度の悪い患者でも、どんなに重く汚い病巣の中でも、
表情1つ変えず、仕事をやり通した」
「先生、何を言っているんですか」
「分からない?」
そこは、つい数時間前までは、
たくさんの人が痛みを取り合う場所だったはずだ。
しかし今では、痛みを与え合う場所に変わろうとしている。
「田宮先生、ドリルの中身を見たことがありますか?」
「いいえ」
「私達の中身は、皆さんが思っているよりずっとスカスカなんです。
顔をしかめたりだとか、
愚痴を言ったりとか出来るような器用な体では無いんです」
「でも、気持ちを通い合わせることは出来る」
「何故、そんなことが言えるんです」
「奥さんが、いる」
震えていた。感情の振動が空気を覆い尽くして、その場に生きるものを震わせている。
「妻は、幸せだったんでしょうか?
私は笑顔を見せることも出来ない、涙を流すことも出来ない、
肩を組めば尖った刃先が彼女を傷つけてしまう。
そして、息子は私のせいで手術1つまともに出来ない体になってしまった。
きっと、ドリルと人間が恋なんてしてはいけなかったんです。
ドリルは仕事だけしておくべきだったんだ。
それだけの私であれば、あなたにも誰にも迷惑をかけることは無かった」
ドリルがひと仕切りまくしたてると、空気は緩やかに元の静寂に戻っていった。
残されたのは青ざめた1人と1つだけである。
「田宮先生、見て下さい。ここにあったドリル達を磨いておきました。
以前、町の職人さんから教えてもらった技が役に立ったようです」
普段、市井の人々が目にする歯科医療用ドリルが並んでいる。
蛍光灯の人工的な光の下においてすら、それは陽光のような眩(まばゆ)さの中にあった。
「それぞれ1本200万はするでしょう。全部合わせれば私の1千万を遥かに凌(しの)ぐ。
そして私達がこんなに言葉を交わしても、彼らは何も話さない。
私みたいにペラペラ喋ったりしない。ドリルとは本来、こうあるべきなのでしょう」
「でも私は」
「田宮先生、あとは彼らが先生の手助けをしてくれます。私はもう必要ない」
そう言い残すと、ドリルは田宮麗子が入ってきたドアの方へ体を向けた。
「待って、どこに行くの」
「仕事に支障を来たすドリルは」
ドリルはノブに手をかける。
「不要のドリルです」
扉は開く。
「さようなら」
何か、裂くような声がしたような気がした。
どうしようもなく、どうしようもないドリル。
彼は夜の中に消えて、それから2度と戻ることは無かった。
(つづく)
Close.△